んなこと言ったら山口二矢や永山則夫が端っから実名なのに誰も疑問を差し挟まないのは何故なんだ――という話は
先日の集会でも出たわけだけど、実のところ少年事件の容疑者なり被告なり犯人の実名を出すor出さないについての明確な基準が、社会的なコンセンサスとして存在するとは到底思えない。
むしろ実名か匿名かを分けるのは、当の「少年」の事情よりも周囲の「大人」たちの都合ではないかという気がする。
例えば1997年に神戸で起きた例の「酒鬼薔薇」事件の際にもこんなケースがあった。あの時は『フォーカス』と『週刊新潮』が容疑者少年の顔写真を記事中に掲載しているのが事前に明らかになったことで発売中止の大騒ぎになったわけだが、実は確かこれに少し遅れるかしてもう一誌、少年の顔写真を掲載した雑誌があった。当時まだ発行されていた月刊誌『ゼンボウ』(全貌社)だ。
ちなみに同誌はその号で少年の顔写真どころか実名まで公表したという話だが(^_^;、私自身は当時その現物を確認しそこなったので、以上はあくまで話として聞いているだけだ。もっとも『ゼンボウ』は東京都心部の大きな書店の総合誌コーナーなどでは割によく見かける雑誌だったから、当該の記事を実見した人もそれなりにいたはずだ。
ところが『フォーカス』や『週刊新潮』とは違い、同誌については発売禁止や回収騒ぎはもとより、大手メディアでセンセーショナルに報じられることもなかった。何故かというのはだいたい察しがつくところで、この『ゼンボウ』は右翼・反共などの「その方面」ではよく知られてきた雑誌だった。なので下手に紹介したりした日にゃどんな恐ろしいリアクションが返ってくるかわかったもんじゃない(というか、露骨に挑発してやろうという狙いが同誌側にもあったのかもしれない)と、おそらく大手メディア側も警戒し、くわばらくわばらで黙殺したのだろう。
まあ、以上は少々極端なケースとはいえ、少年事件における「実名か匿名か」およびそれを社会的に問題視するか否かの判断基準が、実は結構大人の「ご都合主義」により左右されていることをよく示したエピソードであったとは言えるかもしれない。
――というわけで、例の光市事件本をめぐって個人的に思いめぐらした書いてみたいと思ったわけなんだけど、書きたいことの本題は以上の話ではないのだ。とりあえず、「過去にはそんなこともあったよ」という覚え書きに今回はとどめるとして、続きはまた改めて。
(
つづく)

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