いつのまにか自分の会社(プリズム)の公式サイトも閉鎖してしまったし、9月のTOKYOメディフェスでもお顔を見かけなかったので「どうしているのかな」と思っていたのだけど、どうやら相変らず元気に飛び回っているらしい。久々にブログの記事を読んで、少し安心した次第。
イキイキと生きる普通の人々の生き方を伝える。
岸本晃の住民ディレクターNEWS 〜ひと、光る。ドラマ発見 〜
岸本さんにはかれこれ10年近く前に初めてお会いして以来、何かと「目から鱗」的な刺激も受けてきたのだけど、今だに印象深いのは、もう7年前に熊本で参加したワークショップの席上でうかがった、この一言だ。
「
人には誰しも“知られる権利”があると思うんですよ」
ここんとこの「市橋」「島根遺棄」「女詐欺師」「のりピー」等々のニュースが先行している状況下では、あるいは誤解を受けそうな言葉ではあるけれど。
ただ、市橋だの「のりピー」だのをここぞとばかりに穿り返そうとするメディアは、えてして「一般市民の『
知る権利』に応える」「我々には『
知らせる権利』がある」とかいった大義名分を振りかざす。
一方で、視聴者なり読者はそうしたマスメディアの過剰報道を楽しみながらも「何でそこまで人のプライバシーを穿り返すの?」という違和感を持っている。そのせいか、最近は、たまたま自分の近くでビデオカメラを回されていると見るや「プライバシーがあるから」「肖像権の侵害だから」と拒む人も多くなった。
ようするに、プライバシーだ肖像権を盾に「
知られない権利」を言い立てる人たちが多くなっている。
そんな
「知る(知らせる)権利」vs「知られない権利」のぶつかりあいばかりが目立つ昨今にあって、いったい
「知られる権利」なるものをどうやって説明したらいいのか。
岸本さんの場合、上記ブログのタイトルにもある通り、あくまでも伝える対象は市橋やのりピーのような「限られた人」ではなく、どこにでもいる「普通の人々」である。そんな普通の人々の暮らしの生活の中にも「こんなに素晴らしいものがある」「地域を超えて社会全般へも普遍的に通じる示唆や教訓が含まれている」ことを彼は伝えようとしている。それも従来からあるマスメディアの定石的な作りこみのパターンを排した、もろに産地直送な、山から切り出した丸太ん坊をそのまま我々の後頭部へとブチ当てるような手法で。
ちなみに「知られる権利」については以前にも、もう一つの拙ブログの
このあたりに記事を載せていて、特に岸本さんの熊本ワークショップに参加した際の体験(もう7年も前になる)については「知られる権利@〜F」として書いています(未完のまま ^_^;)。一応ご参考までに。

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