しつこいですが続けます。
結局のところ、少年事件において「その少年の名前を出すor出さない」は「要するにそれを伝える者たちのご都合主義によって決まることである」といった話は
前回までに書いた。
ただ、最終的に名前をメディアに載せるか否かは別として、少なくとも取材する側がある特定の人物について強く迫ろう・深く掘り下げようとする場合に、当人の「名前」はその過程においてアクセスすることが不可欠な要素であるである。
というか、こんなのは改めて書くまでも無いようなことなのだけど、仮にある犯罪者(もしくは犯罪を行ったとされる容疑者)がいたとして、その彼が犯罪を行った背景(もしくは「本当に彼が犯人か否か」を示す事象)に迫ろうと思ったら、彼の名前から年齢から生い立ちから職場や学校での様子から等々の細かいディティールを、あちこちに聞いて回りつつ一個一個つみかさねていく……という作業は、それこそ取材のイロハである。
だからそうした作業の中では、「名前」なんてのは取材者ならどうしたって真っ先に知る類の情報であるわけだし、取材先でも「○○さんについてお伺いしたいのですが」と真っ先に持ち出しては、そのつどあちこちにアナウンスせざるを得ない立場になる。
そういう意味では「それを公けにするのか否か」が問われる名前を、仕事の中でごく当たり前に他者との間で語り合うというジャーナリストという仕事そのものが本質的に孕む「疚しさ」であると、それは言えるかもしれない。
で、問題は報じる局面においてそれぞれのジャーナリストが自身の持つ「疚しさ」にどう対峙するかである。あくまでも「疚しさ」への自覚のもと、あくまでそれを伏せることにするのか。それともどこか原罪感のようなものを覚えながらも「必要ならば自分の責任において出す」と判断するのか。
私は上記二つのどちらもジャーナリストの姿勢として「あり」だと思う。もっとも、最近の(実名云々とは関係ないけど)「のりピー」だ「市橋」だのの報道を見ていると、「疚しさ」なんてものは頭の片隅のかけらにもないまま「卑しさ」に走っている連中がマスメディアの世界には多いようなんだが。
と、話が逸れたが、その「疚しさ」がらみでというか、私自身も個人的にこんな体験をしたことがある。2003年の長崎市12歳少年事件の現場周辺まで取材に行った時のことだ。
あの事件では、少年の実名はもとより、彼が通っていた中学校の名前もマスメディアでは伏せられていた。とはいえ、言うまでもなくウェブ上では事件発生からほどなく、そんなものは盛んに出回るようになっていた。
事件の翌月、中学校の校長が校内で記者会見を行うと聞き、それに合わせて私は現地入りし、会見に参加した。東京にいて何でそんな会見開催の情報が得られたのかというと、ウェブ上に名前の出ていた中学校に思い切って直接電話をかけて取材の意思および趣旨を伝えたところ、いきなり電話口に校長が出てきて(あれは結構びっくりした)、「取材のご趣旨はわかりました」と言われ、後日に会見の案内もいただいたのだ。
ちなみに、長崎市教育委から直前に送られてきた案内FAXには、期日と学校の番地は記載されていたが、学校名については『当該中学校』と書かれていた。
ウェブ――まあぶっちゃけて言えば「2ちゃんねる」だ――で知っていきなり電話をかけてきた人間にもそうしてきちんと対応してくれたことへの有難さと、それと裏腹の「疚しさ」、一方では依然として中学校の名前すらそういうふうにしか表記できないという、もどかしさというのか歯がゆさというのか……何か物凄く複雑な感情を、FAXを手にしながら覚えたものだった。
ともあれ、そんな経緯から長崎入りし、地元のメディア関係者や“当該少年”および家族の近隣に在住の方々に取材して回ることになったわけだが、もちろんその時点で、既に少年の実名や住所などはとっくに私の頭の中にも入っている。けれども、さすがに取材の席で堂々と口にするのには躊躇した。
実は長崎の地元メディア各社も少年が逮捕された直後から「取材先で相手に少年の実名を当てるようなことはしない」との方針を打ち出していた。取材を通じて結果的に地域内への実名をアナウンスしてしまうことを避けるためだ。
また、これには事件発生当初より東京方面からイナゴのように大挙してやってきた週刊誌やワイドショーなどの取材陣が現場周辺で散々乱暴狼藉を行ったことへの地元側の防衛策のようなところもあった。
少年が住んでいたマンションでは、逮捕直後から各メディアがそれぞれ10〜20人規模のスタッフを投入し、全戸をシラミ潰し的に回るという大騒ぎになったらしい。堪らず代表で取材を受けることを決意したマンション自治会長さんは「結局300人以上を相手にしましたかね」と、分厚い名詞の束を見せながら私に語ってくれたものだった。
会長さんによれば、どの記者も向き合うや手元のノートPCを開いては、画面に表示された少年たちの顔写真をあてながら「この子ですか?」「この子ですか?」と訊ねてきたそうだ。
「でも、どれも全然違うんです」と自治会長さんは言った。「そりゃ中には本物もあったかもしれないけど、全部で1000種類ぐらいあったそうですから」。(ちなみに、これはウェブ上に流れていたもののほか、近隣の中学校が当時サイト上に全校生徒の顔写真を載せていたのを持ってきたということもあったらしい)
また、自治会長さんによれば「少年の生年月日を教えてください」って盛んに聞かれたそうな。要は「中学1年生」までは警察発表でわかったが、誕生日前で12歳なのか、それとも既に13歳なのか確認させてくれというわけだ(ちなみに、某大手新聞は「13歳中学生」と一面トップで誤報をやらかしていた)。
まあ、そんなこともあっただけに、地元メディア側が取材現場でも少年の実名出しを控えようとしたのは理解できる。東京から来た連中とは違い、地元の記者ならばこそ自身も地域内での近所づきあいがあったり、また地元の学校に子供を通わせたりしている人も多かろうから、ナーバスにならざるを得ないのもわかる。
しかしだ。
これは実際に私もその姿勢を汲んだうえで取材してみたからわかるのだが、取材現場で「誰かについて訊ねるのに、その本人の名前を出してはならない」というのは結構やりにくいものだ。少なくともそれは、上述した「細部までくどいほどに確認しながら事実のディティールを積み上げていく」という取材のイロハからすれば本来およそありえないやり方なのだ。
「そうでしょう?」と、取材のさなかに会った地元の某新聞幹部氏も言った。「名前を出さずに『ご存知ですよね?』とお互いわかったつもりで話したところで、聞ける範囲には限度がある。そこで得た情報というのもある意味で弱いですよね」
いったい何でああいう事件が起こってしまったのか、その本質に迫りたい。しかし、本質に迫ろうとすればするほど、そこに関わる当人や関連団体の「実名」を取材現場で口に出すのにも逐一思案しなければならなくなる――。
要は「実名を出すor出さない」が、事件の本質とは直接関わりの無いレベルで妙な意味合いを持ってしまい、それが逆に「本質に迫ろう」とする者たちの前に立ちはだかってくるという、何とも倒錯的な状況が、そこには生じてしまうのである。
そもそも、じゃあそうした当人の実名やら顔写真にはたして何の意味があるの? と言いたくなる。この長崎市事件の翌年にも今度は同じ県内の佐世保で少年事件があり、その際にも私は現地入りし、取材の中でくだんの「少女」の実名やら顔写真に接したわけだが、それを知りえた立場にある自分が何か得をしたという気分には全然ならなかったし、正直「だから何なの!?」と、むしろ苛立ちを覚えざるを得なかったものだ。
そんなこととは無関係に、目の前には「何であんなことが起こってしまったんだろう」という痛ましいまでの空気が、地元の人たちの間に依然として濃密に横たわっていたというのに。実名は? 顔写真は? そんな、遠くで起きた事件を東京あたりでゲームみたいに楽しんでいる連中たちの感覚につきあってる場合かよ!……
以上、少々古い話を持ち出してしまった。ただ、今回の光市問題の本の件にしても何にしても、事件報道において同種の「実名を出すor出さない」という話題が繰り返されるたび、数年前の夏に感じたあの苦い違和感を、今でも私は思い出さずにはいられないのだ。

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