mixiのほうに「今の仕事の都合上、表のブログには書きにくいこと」を書いたわけですが、だったら「過去の仕事に関することで今なら平気で書けること」はないのかとしばし考え、以下の例を思い起こしました。
一昨年の秋、月刊誌『潮』編集部のIさんから「『週刊誌』をどう読むか」というテーマで原稿を書いてくれませんかとの依頼が来た。
『潮』といえば創価学会の外郭団体である潮出版社が版元である。当時、同社を含めた創価学会系各メディアは、天敵『週刊新潮』を擁する新潮社を、まさしく総力を挙げてブッ叩く一大キャンペーンを展開しており、誌面はおろか、その宣伝告知を行う新聞広告や車内吊り広告にも連日連日デカデカと新潮社批判の大文字が溢れかえる状況にあった。
なので「ははん、とうとう俺まで動員しに掛かったのか」と最初は思った。私もそれまで何度か新潮社に対して批判的な記事を書いたりしていたからである。ただ、打ちあわせで久々にお会いした編集部のIさんは「いや、そろそろあの路線とは別に、一度きっちり『週刊誌はなぜああいう人権侵害報道をやるのか』について構造的なところからきっちり掘り下げる必要があるのではないかと思いまして」と言う。
実は私は以前にも一度、Iさんからの依頼で『潮』に記事を書いたことがあって(テーマはオウム問題だった)、真面目で誠実、かつ編集者としても優秀な人であることは知っていた。で、あればこそ、せっかくのそうした依頼には応じないわけにはいかない。
「別にウチと新潮のことにはこだわらなくて結構ですから」との言葉もいただいたし、私自身『週刊新潮』に対してはジャーナリズムとしてのスタンスには相容れないものを覚えるものの、単純に雑誌としての力量や個性という点では以前から「なかなか大したものだな」と敬意をいだいていた。
そこで記事の冒頭の一行目に
「私は『週刊新潮』のファンである。」
と書いた原稿を書いて送ったのだが、これが校了日の深夜までえらい攻防戦を引き起こすことになってしまったのだった。
「わかるんです! わかるんですが・・・・・・!」
新宿の路上で受けた何度目かに受けた携帯の向こう側で、Iさんは苦しげにこう言ったものだった。背後ではがさがさと人々が語り合う物音が聞こえる。
聞きながら「ここはやっぱり引っ込めたほうがいいのかな」「いや、こんなところで引けるかよ!」という相反する思いが心中で交錯する。
が、そこにはもう一つ別の思いも頭をよぎっていた。というのはその日のその時刻、たまたま私はまもなく休刊を控えていた『噂の真相』の編集部を訪ねに行く途中だったのだ。「一行情報のお土産にでもどうかな?」というデーモンのごとき誘惑が、電話を聞きながらふつふつとこみ上げていたのであった。が――。
「わかりました」と私は折伏、じゃない折れた。「巻頭からは削ってくださって結構です。その代わり、少し後のほうに入れてくれますか」
誠実なIさんは実際にそのようにしてくれた。でも、それ以降『潮』からの仕事の依頼はない。Iさんには本当に申し訳ないことをしたし(だったら書くなよ! と言われそうだけど)、あそこは原稿料も高いし支払いもしっかりしているし、もったいなかったかなあ・・・・・という気もするのだけど、まあ仕方がないといえば仕方がない。でも、こんなことをまたここで書いてたら、ますますどこからも仕事が来なくなっちゃうのかなあ。

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