現在発売中の『週刊ポスト』(3月31日号)の巻頭トップは「村上ファンド『只今電通買収中』の大勝負!」。で、この記事の影響からか、週明け早々から電通株が跳ね上がったんだそうな(→「
電通が新高値、07年から14年までのFIFA主催大会の放映権取得を好感、『週刊ポスト』記事も思惑誘う」)。
「村上ファンドが電通を狙っているらしい」との噂は、少し前に月刊誌の『選択』も書いていた話で、今回の『週刊ポスト』の記事は明らかにその後追いである。ただ、直接購読が主体で部数的には数万部程度の『選択』(自ら“三万人のための情報誌”を標榜)に書かれるのと、コンビニやキヨスク・書店で売られる一般週刊誌に記事が載るのとでは影響力が違う、ということなのだろう。市場関係者の中にも、それが既に『選択』に出ていた話だと知っていた人は多いのだろうが、それでもいざ記事が出ればこういう反応になって返ってくるわけだ。
で、そういう記事の中に何故か私のコメントが出ていたりする。
先週の中頃、『ポスト』の記者さんから電話がかかってきて、聞かれるままにあれやこれやと答えていたのだが、実際に出たものを読んでみるに「ん〜と、俺ってこういうことをしゃべったんだっけ?」と、なんだかピンとこなかったものだ(記者さんには申し訳ないが)。
ただ、記者さんもいろいろ聞いた中から自分なりに記事の文脈に合わせてまとめたんだろうし、そこはもうお任せすることにしていたので、その自分のコメント部分について特にそれ以上の感想はない。ただ、やはりこういう話題を一般週刊誌の記事として上手く消化するのはなかなか難しいんだろうな、と読みながら思った。あちこちによく取材したうえで書かれてはいるのだが、集めてきた素材から一つのストーリーを組み立てるのに結構苦労している様子が記事からも窺える。
週刊誌的には「テレビ局を買収しようとしてなかなか上手くいかない村上世彰氏が、ならばとばかりテレビ局に影響力を持つ電通を買収することで間接的な支配力を行使しようとしているのだ」といったストーリーは確かに面白そうだ。事実、前記の『ポスト』の記者さんにも「そういうことですよね?」と尋ねたところ、否定はしなかった。
まして「電通」だ。どうもメディア業界の人間、特に「反権力」とか「反体制」とか言っている向きほど、電通について何か書こうとする時に「タブーに挑戦!」とかいう具合に、それがさもカッコいいことであるかのごとくに構えてしまうところがある(ただまあ、それも、誰かが言ってたけど陰謀論者がすぐに「フリーメーソンの陰謀だ」って騒ぎ出すのとある意味で似たような話なんじゃないかという気も個人的には最近だんだんしてきたんだけど)。
確かにメディアから見れば、自社の「広告収入」というアキレス腱を押さえている電通という存在はある種のタブーと映るに違いない。だから、そこが特定のどこかに買収されるらしいという話を大事件と見なすこと自体も決して不自然ではない。
もっとも、それは何もテレビ局に限らず大手出版社、特に『ポスト』の版元である小学館についても同じことが言えるだろう。もし買収によるメディアへの間接支配が現実のものになるのだとするなら、『週刊ポスト』だってそんな他人事のような記事なんかを書いていられる場合ではなくなるんじゃないかとの疑問ももたげてくるところなのだが、どうも先の記者さんからの電話の様子から察するに、そうした当事者的な問題意識というのはあまり持っていないように感じられた。
それはともかく、しかし電通っていう存在はつくづく不思議なものなんだなと、これもまたこういう電通絡みの記事がどこかに載るたびに生じる感想を今回も覚えた。
「巨悪」「メディアを支配する闇の商人」「最大のマスコミタブー」とかなんとか盛んに言われるわけだけれども、その内実に踏み込んでいこうとすればするほど、いかにもツカミどころがなくなり、週刊誌的な記事の見出しが立ちにくい世界が目の前に表われてくるのだ。
もちろん、金や女やクスリなどにまつわる話はそれなりにあって、以前ならば『噂の真相』あたりが「大手マスコミが絶対書けないスクープ!」とかいう調子で勇ましく書きたてていたわけだけれども、よく考えれば今時どんな大手企業にだって(それこそテレビ局や新聞社・出版社にだって)そういう話の一つや二つはあるだろう。
しかも電通の場合に厄介なのは、そういう社員のスキャンダルに絡む話が公けになることに案外抵抗感がない、というか逆に「それも男の甲斐性」みたいなマッチョな価値観が、どこか社員の間にもあるように見受けられるのだ。
「そんなバカな」と思われるかもしれないが、その理由は簡単だ。なぜなら一般のメーカーやメディアの場合、社員の不祥事はすぐさま会社自体のイメージダウンへとつながり、ひいては企業としての業績にも悪影響を及ぼすことになりかねない。けれども、メディアと広告主の間に立つ純然たる「BtoB」の業態である広告会社の場合は、別に社員が少々悪さをしようが、それでメディアや広告主が「電通と取引をやめよう」などと思ったりしないからだ(だって、別に電通社員の下半身と仕事をしているわけじゃないんだし、別にそんなのはどうだってよいのだ。要するに自分のところとの仕事さえ間違いなくやってくれればいいんだし)。
とはいえ、確かに取引上のことで不正を働いたら切られてしまうというリスクはある。ただし、そういう場合になると、ここではさすがに電通のスケール力がモノを言うようになる。六年前にスズキ自動車を担当していた電通の営業担当社員が、スズキに対して請求額を水増しした着服していたという事件が表面化したことがあったが、詐欺罪に問われても仕方がないこの事件について、被害者であるスズキは裁判に訴えようともしなかったし、後日に損害相当額を電通から返してもらうだけでコトを収めた。あの時は私もスズキの東京広報部まで直接取材に行ったものの、先方の返事は暖簾に腕押しだったし、日本広告業協会(広告会社の業界団体)に電話で「この問題について業協として何らかの対応や協議をしていくつもりなのか」と聞いたのだが、電話口に出た専務理事だったか事務局長は「ありません」と言ったきり、以上の質問には一切答えようとしなかった。
そういう意味からすれば『週刊金曜日』が一昨年やった連載や、それをまとめたブックレット『電通の正体』はなかなかよく切り込んでいたと思う。ただ、あの時も知り合いの電通社員に聞いたら「あれで怒る社員はいないですよ」と言っていたし(その意味では汐留の広報室に呼び出しくらって、赤線の引かれた自分の記事のコピーについて問い質された俺はなかなかいいところまでやったな、とか自慢気に一瞬思ってしまったのだが)、おそらく電通という会社を支える不思議なノーションやメンタリティについては、まだあまりジャーナリズムが踏み込めていないということなのだろう。今や古典となった田原総一朗の『電通』や大下英治の『小説電通』はそこに踏み込んだ数少ない例だといえるだろうが、どちらにしても書かれてからは年月が経ち過ぎている。なにより、その間に電通や広告業界をとりまく状況は変わってしまった。そろそろ新しい「電通」論が求められているのかもしれない。
――というのを私がやるというのは、絶対疲れそうなので正直嫌なのだけど(マジな話、業界誌記者時代からもう20年近くこの業界に関わってきて「いい加減もう飽きた」という思いがある)、どういうわけか、去年までの「フジサンケイビジネスアイ」での連載みたいに、そういう時になると引き合いが来るのだから因果なものである(先の『電通の正体』にも“出演”しちゃったし)。
実は先週末にも「電通」をテーマにした原稿を書いていた。締切を過ぎてから入稿したので、本当に載るのかどうかわからないのだけど……でも、なんだかんのと言ってその程度の需要はあるのだろう。週刊誌だってこういうことになると私なんかのところにまでコメントを求めに来るわけだし。
とはいえ「じゃあ一回それで本を一冊も書いてみようか」なんて提案したら、途端にみんな引くのが見えてるわけで、結局広告業界をめぐるジャーナリズムは(純然たるインナー向け業界誌に載るものを除けば)今後もそういう中途半端な有り様が続くのだろう(溜息)。だったら私にしても、そんなものよりは「市民メディア」を追う(というか、取材者であることを半ば忘れて一緒に遊んだり楽しんだりしているのだけれども)ほうが全然楽しいのだが、これについては大手メディアが広告業界以上に関心を持とうとしなかったりするのだ。
やれやれ――と、ぼやく間もなく次の原稿を書かないと。今度は「市民メディア」の話だ。

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