西村新人類氏が先日の
「オウマ―日記(2006.4.18---06:40)」 で、「パンチラがぞくぞくのサイトを発見しました」と書いていた。まあ、この人のことだから……と思いつつ一応アクセスしてみたところが、案の定というか期待に応えてというか
こういうものであったわけだが、おかげさまで少し前に「書いてみようか」と思いながらも忘れていた小ネタを一件思い出した。
というのも、この「岩本太郎ブログ」の場合は画面左側に「スポンサードリンク」というものが表示されているわけだけど、実は――恥を忍んで告白するなら――つい最近まで私はこれを「スポンサー・ドリンク」と読んでいたのだ。
「いったいスポンサーが何を飲むというのだ」などとぼんやり考えたことはこれまでにも何度かあったが、先日何気にそこの部分を見ていて「ド」と「リ」の間に半角空きスペースがあるのにようやく気がついたのだ。まあ、でもよかったですよ、うっかり誰かに話す前に気がついて。あぶねえあぶねえ。
それにしても日本語の場合、こういった取り違えは往々にして起り得る。つまり、基本的に「平仮名(カタカナ)1文字=1音節」で、文節や単語の区切りが曖昧な言語であるため「そこで切るな!」と言いたくなるような言い間違いというか取り間違いが頻発しやすい性格を持っているのだ。
たとえば今使っているこのパソコンにしてもそうなのだが、私が自分の本業について「書く仕事」と表記しようとするたびに「隠し事」もしくは「隠し子と」などと誤変換をするので思わず張り倒したくなるのだ。もっとも、一瞬の後には「そうかあ、俺の仕事って、もしかしたら事実を書いてるつもりで実は『事実を隠してる』仕事なのかもしれないな」とか妙な含蓄も感じてしまったりするのだけれども(ちなみに英語の「cover」という言葉は「報道する」「隠蔽する」という相反する二つの意味で使われている。うーむ、やっぱり含蓄があるね)。
特に音楽ではそういったケースが往々にして見られるようだ。すなわち「1単語=1音節」の語彙が多い英語を土台として出て来た洋楽に、日本語の歌詞が上手く乗るのかという問題。
ずいぶん昔の話になるけど、筒井康隆が「歌謡曲の奇怪なイメージ」とかいったタイトルのエッセイ(正式なタイトルは失念。ごめんなさい)の中で、そうした例を書いていたのを読んだ覚えがある。
例えば小柳ルミ子の『私の城下町』の中の一節が「見上げる言うや 毛の空に」とか、尾崎紀世彦の『また会う日まで』の中に「二人で心 罠に顔 話すだろう」と聴こえる歌詞が出てきたりするという話だった。実際、どちらの曲も私はまだ幼かった時分に聴いた折に「『ワナに顔』ってどういう意味だ?」と子供心に不思議に思った記憶もあったため、読みながら正直「我が意を得たり」という気がしたものだ。
(他にも筒井康隆は同じエッセイの中で、アグネス・チャンの『草原の輝き』の歌詞の一節について、「『私の好きな宋 元』と聴こえる」との指摘もしていた。さすがだ)
と、こう書きながらも「また会う日まで」が「また会う暇で」などと返還、じゃない変換されるのに辟易させられるのであった。何とかならないかな。
取材の席でも時折そんな例に遭遇する。たとえば何年か前、群馬のある街の市議会議員さんにお会いしたことがあるのだが、私が差し出した名詞をしげしげと眺めた彼が訝しげな表情で、
「ランスライターって、何?」
と、開口一番に問い掛けてきた時には思わず膝から崩れ落ちそうになったものだ。
まあ、普段からこのブログなどでも「『フリーライター』とは『タダで原稿書く奴』の意味か」とか書いてるわけだし、仕事で使う名詞の肩書きにも一応「フリーランスライター」と記載しているわけであるが、まさかそこで切られるとは思わなかった。今度から「ス」と「ラ」の間に「・」を入れるか、半角アケにしておこうか……と、その時は思ったものの、逆に何だか馬鹿馬鹿しくなって未だそのままに放置している次第だ。かくして、言葉の切り方の問題をめぐる私の悪戦苦闘は、隠し事ならぬ隠し子とならぬ書く仕事を生業として選んだ私にとっての生涯を通じたテーマになりそうなのであった。
追記 ところで上記の「スポンサー・ドリンク」ならぬ「スポンサード・リンク」、このところ文芸社の広告ばかりがやったら出ているけど一体どういうつもりだ。先に「
メディアの夢の島」のほうで連載すると書いたけど、こうなったら試しに「続編」をこっちにも載せてみたほうがいいかもしれない。

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