帰省したついでに訪ねてみた。場所は熱海にある。
正月の観光客で賑わう熱海駅前から、客足も疎らな路線バスに乗り込む。どんよりとした雨雲の下、海岸の急斜面沿いに右へ左へ曲がりくねりつつ延びる県道上を、沖合いはるかに霞む初島を眺めながら揺られること約20分。バスの終点「伊豆山」まで乗り通した少ない客のほとんどは、バス停のすぐ上の「身代不動尊」への初詣へと向かっていく。
一方の私は独り、さらに続く羊腸の海岸道を先へ向かって歩き出す。が、ほどなく目的地への入口に行き当たった。というか、下手すると目印に気づかず行過ぎてしまったかもしれない。歩きながら何気なしに踵を返した途端、その石柱は向こうから視界に飛び込んできた。
「興亜観音」。そして、写真だと見づらいかもしれないが、その横には「陸軍大将 松井石根 書」とある。
松井石根といえば、かつての大日本帝国陸軍大将であり、日中戦争時には上海派遣軍・中支那方面軍の司令官。というより、今の日本人にとってはむしろ戦後の「東京裁判」(極東軍事裁判)において、あの「南京大虐殺」の責任を問われて死刑判決を受け、絞首刑にされた「戦争犯罪人」としてもっぱら記憶されている人物である。
で、この興亜観音は1940(昭和15)年の春、その松井が、熱海にあった自分の家にほど近いこの場所に「日中両国の戦没者を弔いたい」との目的から建立したものだ。
そして、松井が処刑された後には、松井とともに処刑された東條英機などの「A級戦犯」7人の遺骨が、実はここに埋葬されていたのである(松井は厳密には「A級」で処刑されたわけではないとの説もあるようだが)。
昨今の「靖国問題」をめぐる論争の中で、しばし「別に靖国神社にA級戦犯たちの遺骨が埋葬されているわけじゃないんだから……」といった話を耳にすることがある。では、処刑された東條英機たちの遺体はその後どうなったのだろう?
日本人が故人を悼む行為において「遺体」の処遇は最大かつ重要なポイントだ。
ハワイ沖の「えひめ丸」事件において、犠牲者の遺体収容を執拗に求めてくる日本人たちの精神構造を、真珠湾攻撃で海中に撃沈された艦船や乗組員の骸を今も近くの海域に眠らせたままのアメリカ人は理解できなかったという。中国では死者の骨は遺族が近所の野山に埋めて終わりだそうだ。モンゴルの遊牧民族は「死者を埋めた場所は誰からも侵されないようにする」のが鉄則で、チンギス・ハーンの埋葬地が永年未解明だったのはそのせいらしい。インドのヒンドゥー教徒は荼毘にふした死者の遺灰をガンジス川とかに流してしまうし、ゾロアスター教徒はムンバイ(ボンベイ)の「沈黙の塔」で、遺体を鳥に食わせる(鳥葬)という方法で始末する。
その点、日本人ってやつは今度の幡ヶ谷の事件はもとより、かの佐川一政さんや宮崎勤さんなどの例を見るまでもなく「遺体をどうするか」ってのが「死」を自分なりに納得するうえでの大きなポイントになるのだ(そんなヤツと一緒にするなって声が飛んできそうだと思ったから、敢えて一緒にした)。
そんな日本人が、戦争犯罪人を祀るの祀らないので大騒ぎしているわけだ。そうしたことから考えてみるに、その遺体や遺骨の在りかが、まるで問題にならなかったことのほうが不自然だともいえる。
東條や松井ら7人の処刑は、1948(昭和23)年の12月23日(つまり今の天皇誕生日)に執行された。遺体はその日のうちに横浜の久保山にあった火葬場で荼毘に伏されたという。遺骨はそのまま東京湾かそこらに撒かれる手はずになっていたらしい。
しかし、遺骨は密かに持ち出され、それぞれ遠く離れた2つの場所に埋葬された。そのうちの一つが、この興亜観音なのだ――というわけなのだが、とりあえず続きはまた明日以降に。
(
つづく)

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