個人的にこの3月下旬は「記念ウィーク」であったりするのである。大学を卒業してから20年たったという話は先日も
ここに書いたが、私の場合、大卒後の20年は東京生活を始めてからの20年、および物書き生活(業界誌でのサラリーマン編集者時代を含む)の20年と、実はほとんど重なっているのだ。
それにしても、全てはあの薄ら寒かった年度末の、わずか1週間たらずの日々から始まったのだな……と、いま思い出しても感慨なしとしない。時に1988年3月の終わり。時代はまだ「昭和」だった。
卒業式から2日後の3月25日朝、それまで5年間を過ごした大学の寮を経ち、盛岡発上野行き(※当時の東北新幹線は未だ東京駅まで通じていなかった)の「やまびこ」に、まさに後ろ髪を引かれる思いで乗り込んだ。新幹線の車窓から、遠ざかって行く盛岡の街並や岩手山を何ともいえない気分で眺めたものだ。
昼過ぎに上野駅へ到着し、山手線と西武新宿線を乗り継いでやってきたのが、中野区の沼袋(ぬまぶくろ)。ここから徒歩で約10分ほどの江古田4丁目にあった6畳1間・風呂無し・トイレ共同・家賃は月額3万円という老朽アパートが、私の東京における“新居”だった。到着後、ほどなく引っ越し荷物も届いたものの、静岡の実家から「引っ越し祝い」で送ってくるはずの布団セットが手違いでその日のうちに着かなかったため、仕方なくその日の夜は荷物の中から引っ張り出して畳のうえに敷いたシュラフ(寝袋)に潜り込み、遅くから降りだした雨が天井を叩く音を暗い部屋の中で独り聞きながら一夜を明かした。
その時点ではテレビも電話も、今ならば必須アイテムのケータイすらないままに過ごした、東京生活の1日目、なおかつ23歳にして初体験となる一人暮らしでの初日だった。
「明日からいったいどうなっちゃうんだろう?」と、寝袋の中で暗い天井を眺めながら、さすがに不安に苛まれたものだ。6畳1間で家賃3万円は都内だと最低水準に近いとはいえ、それまで寮費が月に7000円の学生寮に5年間暮らし、生活費も月に3〜5万円で住んでいた田舎の若造にとって、新宿まで30分圏内で3万円というそのアパートは、「贅沢すぎない?」って思えるほどのレベルにあった。
ましてや、その時点で私には、東京における仕事のツテはまったくなかった。少なくとも、東京都内には頼れる親戚や知人も皆無(埼玉に大学時代の友人がいたが、彼が通う都内の職場を受けたものの非合格)だったし、一から自力で収入源をみつけなきゃならないというのが、喫緊の課題だった。
「できたら文章を書く仕事か『編集』とかいう仕事をやりたいなあ。それも盛岡とか静岡とか田舎の限られた範囲でじゃなくて、できたら全国区で」と思いながら、その前年(1987年)の夏ごろから何度となく、都内の出版社や編集プロダクションに履歴書を送ったり、あるいは時に面接で訪ねてみたりはしたものの、ほとんど門前払いをくらっていたのだ。
だったら、まずはとにかく東京まで出よう。そのうえで、ぼちぼち(今でいう)フリーターをやりながら、後のことを考えていこうというのが1988年3月に、当時23歳だった私が考えた「戦略」だったのである。上記の沼袋のアパートも、卒業を控えた春先に盛岡で住宅情報誌をめくるうち「早稲田大学の近くに、学生向けの安い物件を紹介してくれる不動産屋がある」という話を知ったことがきっかけで、事前にいったん上京した際にその不動産屋に飛び込んで、とりあえず「専門学校生」との名目で紹介してもらった物件だった(まあ、そんなことがきっかけで以来すでに20年間、何度か転居はしつつつも未だに中野区内に住んでるわけですが)。
ともあれ、そうした何ともヤブレカブレというか出たとこ勝負的な格好で東京まで出てきた私であったが、それがいかなる天の采配か、寝袋に包まりながら天井の雨音を聞いた上京初日から3日後には、なぜかいきなり赤坂にあるマスコミ業界誌の会社に「見習い編集者」として年度内ぎりぎりの新卒入社が決定。3月31日――つまり20年前のちょうど今日からは、スーツにネクタイを締めた正しいサラリーマン姿で、毎朝超満員の地下鉄丸ノ内線に揺られて8時半に赤坂のビルまで通勤するという生活が始まってしまったのだった。20年経った今でも、あの1週間における事態のめちゃくちゃな変転ぶりはいったい何だったんだろうかと、半ば呆れるような思いで振り返るところなのだが、ひとまずつづきはまた次回。
(つづく)

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