さらにまた
前回のつづきの20年前の話。
もちろん赤坂なんて場所に足を踏み入れるのは、その日(1988年3月28日)が生まれて初めてだった。「昔『ザ・ベストテン』とかでよくテレビに映ってたとこだよなあ」などと田舎モン丸出しのノリで周囲をきょろきょろしながら歩いてみたものの、赤坂見附の駅から広がる街路がえらくガチャガチャと混み合っていて分かりにくいのには閉口した。
「めんどくさいから適当に切り上げて(実家に)帰ろうか」と、ほどなく考えた。面接を受けに来たのにそんないい加減でいいのかと思われることだろうが、実はもっといい加減なことに、この時点で私は目指すそのT社という会社に面接予約のアポ入れ電話も入れておらず、しかもポケットには前日の朝日新聞で見つけて切り抜いた求人広告のみで、赤坂周辺の地図すら持参していないという、およそ信じ難くズボラな体たらくだったのだ。
もっとも、盛岡での大学時代にもよくこんな感じで市内のバイト先までいきなり申し込みに行っていたのである。んなこと言ったって同じ面接でもバイトと就職じゃ違うだろう――と、ここでまた突っ込んでくる方々を呆れさすようなことを言うなら、この時点での私は前記T社が「編集者見習募集」の求人広告を「『見習』というからには『アルバイトでいい』ってことだな」と、あまりにも自分に都合よく解釈していた。したがって、その時もリクルートスーツなんぞを着ているわけもなく、学生時代からの普段着であるジーパン+ヨレヨレのブルゾンという服装だった。
だからある意味で「あーもういいよ、道わかんないんだったらそのまま帰って」という類いのバカであったわけだが、それが実際にそう思い始めた頃になって、まったく偶然に、目指すそのT社が入っている8階建てのビルの前にふらりとたどり付いてしまったのである(もし、あそこで気づかずに眼の前を通りすぎてたら、その後はたぶん今と全然違う人生になってたんだろうなあ……)。
ビルといってもメインストリートから脇道を少し入ったところにあるマンション風の、それも幾らか年季の入った建物。古びたエレベーターで最上階の8階まで上がると、ドアが開いたすぐ目の前に、そのT社の玄関があった。おずおずとインターホンのボタンを押すと「はい」と、さっそく女性の声がした。
「……………あ……あの………新聞で見て、面接に……」
インターホンの通話口にこれだけ答えるだけでも相当な勇気と労力を振り絞った私だった。なぜなら当時の私は(今もそうだが)生来の人見知り性ゆえ、初対面の人とは全く口も聞けず友達も満足に作れないという、今ならば「ニート」や「ひきこもり」にそのままカテゴライズされたんではないかというタイプの男だった。
それが何でマスコミ業界誌を受験しに行くのというツッコミへの答えはもはや省くとして、応対に出た事務の女性に案内されて屋内に入ると、他にも数人の応募者と思しき人々が(当然みなスーツ着用)が、空いた事務机の椅子に座っていた。が、ほどなく私の目の前に、角刈り頭に牛乳瓶の底のような分厚い近眼眼鏡をかけた30歳くらいの男性がやってきて、やたら良く通る声でいくつか質問を浴びせてきた。
どこか殺気を帯びたその男性は、口調は丁寧だったが、分厚い眼鏡の奥底にある目は笑っておらず、正直気押されながら何とか答えた。「うん、じゃあ岩本君は普段どんな雑誌を読むんだい?」と聞かれて「えーと、『ダカーポ』とか『朝日ジャーナル』とか『噂の真相』とか」とか、無理して答えたことぐらいしか、正確な内容は覚えていない。
けれども、それが結果的によかったということなんだろうか。ほどなくして先刻の男性が奥の部屋へと向かっていき、すぐに「岩本君、どうぞ」と招きいれてきた。
その奥の部屋に招き入れられた途端、私は思わず息を呑んだ。いかにも会社の社長室という感じのゆったりと、かつ重厚な装いのフロアに置かれた応接セットのソファに、おそらく50代半ばくらいのデップリと太った男性がどっしりと腰を降ろしていた。その容貌は、例えて言うならさしずめ「落合信彦と開高健と安部譲二を足して3を掛けた」とでもいったところだろうか?
「また、フランクな身なりをしてきたな」と、私を一瞥したその社長はしゃがれた、かつドスの利いた声でのっそりと言った。
“や、やくざだ!”と内心目一杯の焦りを覚えつつも「これしかなかったものですから」と、これまた目一杯の虚勢で返した23歳の私だった。招かれるまま真正面のソファに腰を降ろす。対峙する魁偉な社長の背後、ベランダ越しに見えたのは、当時の赤坂の名物だったTBSの電波塔(今のTBS本社、通称「ビッグハット」の建っているところ)――。
(つづく)

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