2006/8/6

選択と決定 4  患者学入門

 しかし、今振り返ると、ここには論理的な飛躍があったことに気づきました。
それは「何々である」という事実判断と「何々しなければならない。何々するほうがよい。」という価値判断はちがうのです。事実判断からそのまま価値判断を導きだせないのです。

 科学哲学や倫理学でよく話題にされますが、科学では事実判断と価値判断は峻別しなければなりません。医学でも同様です。
「骨髄移植の方が生存率が高い」という事実判断から、そのまま「骨髄移植をすべきだ。骨髄移植が望ましい。」という価値判断にはなりません。
 この二つの判断の間には「多少のリスクや苦痛をおってでも生存率の高い方を選択するほうが望ましい。」という価値観の共有が医療者と患者の間で必要です。私の場合、主治医の言葉や態度から、そのことを感じ取ったからこそ、選択と決定できたのです。

 このことを理解した上でないと、所謂インフォームド・コンセントは成立しません。科学的事実だけの説明をもって価値判断のともなう「選択」と「決定」は困難です。価値観のすべてを共有する必要はありませんが、どんな医療が望ましいのか、どんな生活が望ましいのか医療者と患者側は互いに、ある程度理解しあっておく必要があります。 特に、医療者の方からその働きかけをしませんと、患者側からではむずかしいのではないでしょうか。

 医療は医学の社会的適用・応用といわれます。医学において科学的事実追求にあたっての価値判断の排除することは必要ですが、医療という実践的な場では価値判断を行うことが求められます。その価値判断について、医療者だけでなく、患者とともに少しでも共有していく努力が必要だと思います。
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2006/8/6  11:47

投稿者:風に吹かれて

お父さんの言われるように、事実判断のみだけでは納得いかない場合があるものです。私などは移植しか選択肢がないといわれ、移植へとまっすぐ突き進んでいきましたが、途中再発してしまい、医師から生存の可能性は低いとまで宣告されましたが、どうにか移植の治療を乗り越えて、日々、疲れますが健やかに生活しています。絶対移植はしないといいながら、入退院を繰り返している人もいましたが、心の奥底には移植への恐怖があるようで、今でも化学療法にこだわっています。自分の価値判断に固執するがために治療が長引いてしまいます。
 事実判断と価値判断の狭間で心は揺れ動くものですね。

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