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寒梅  漢詩

今年の梅の開花は遅れているようで、家の近所の梅もチラホラ開き始めたところで、

我が家の梅は全く蕾で、例年よりも3週間ほど遅いような気がします。

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土曜日は詩吟の日で、今日の午前は東金、午後は土気教室を回り、

季節がら新島襄作の「寒梅」を、山本八重さんの鶴ヶ城降伏開城の前夜に

三の丸倉庫の壁に自らの簪(かんざし)で彫り刻んだ歌一首

「明日よりは 何国の誰かながむらむ なれし御城(おおき)に残す月影」を吟じた。

  寒梅  新島襄

庭上の一寒梅 笑って風雪を侵して開く

争わず又力(つと)めず 自ずから百花の魁(さきがけ)を占む


*詩の心・・・新島襄は1664年(元治元年)、米艦べりソン号に投じて密航し

アメリカに渡り、アメリカの大学を卒業した最初の日本人です。

彼の教学方針は自由、博愛のキリスト教精神に有りましたが、

彼が成功したコツは寒梅の精神、すべてにさきがけて咲く寒梅の精神でした。

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松下村塾で維新の傑物を多く世に送った吉田松陰もまた同じように黒船で密航を企てたが、

未遂に終わり、自ら幕府に自首し、安政の大獄で投獄され、29歳の若さで刑死したのですが、

新島襄は吉田松陰の思いを実現させた人でした。

クリックすると元のサイズで表示します(吉田松陰)

新島 襄(にいじま じょう)1843年 - 1890年は、明治時代のキリスト教の布教家で、

同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者。

江戸の神田に安中藩士の子として生まれる。

福沢諭吉らとならび、明治の六大教育家の一人に数えられている。

現地で木戸孝允と知り合い、襄の語学力に目をつけ木戸は、1872年(明治5年)から

翌年1月にかけて、自分付けの通訳として岩倉使節団に参加させている。

新島は、この使節団に参加する形で、ニューヨークからヨーロッパにわたり、

フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンにもどって約7カ月間滞在し、

使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。

これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。

1874年に帰国し、京都で山本覚馬(八重の兄)と知り合い、覚馬の家で八重さんと知り合い

かのハンサム・ウーマンと結婚するのですが、

彼の新居の台所から見える庭に咲く、寒梅を見て、他に先駆けて咲く寒梅の精神こそが

同志社の教育方針でもあり、争わず力まず自由・博愛・中庸の精神が新島襄の生き方だった。

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山本覚馬が京都府知事顧問として活躍し、

薩摩藩邸跡地を買い受けた土地を新島襄に譲渡し、同社英学校の設立に貢献し、

新島襄が46歳で病死した後は同志社総長代理を務めたり、

山本(新島)八重さんも洗礼を受けキリスト教に帰依したことも後の従軍看護婦として、

日赤設立に貢献していたことも最近は詩吟を詠いながら、歴史を勉強している。

それにしても、詩文の「争わずまた力まず」は詩吟の吟法にも通じることで

喉や顎に肩に力を入れて吟じてはならないことで・・・人と競争するために詠うものでもない。

詩の心を吟味し、詩の心を吟ずることで、自らの気を高めてゆくことと思っているのです・・。



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